コストで選ぶ脱毛
オーバーナイトバッグのコレクターといえば、精神科医でエッセイストのS先生だ。
おそらく世界一のコレクターだろう。
先日改めてうかがったら、コレクションは約四〇〇個に達しているそうだ。
書棚の上の収納庫に保管されているそうだが、古いものはもう四〇年も前のコレクションだから、その管理が大変とか。
ご自身、文章にも書いておられるが、そのコレクター魂は凄まじいものだったようだ。
ちなみにコレクションの第一号は、ルフトハンザの女性用のバッグだったという。
S先生は日本旅行作家協会の創設以来の会長で、筆者が専務理事・事務局長としてお仕えてしていることもあって、もう三〇年以上ご交誼いただいている。
折に触れてバッグーコレクションのお話をうかがうのだが、バッグ収集だけが目的の旅行も少なくなかったようだ。
お金を出せば買えるとは限らないものだけに、世界各地のエアラインの本社に乗り込んでの奮闘もあったそうな。
「世界的なコレクター」の妻として、美智子夫人がご苦労されたことも、容易に想像できる。
ご一緒にパリに行かれても、ひたすらバッグを求めて、エアラインを四つも五つも回るコレクターにつき合わされ、ショッピングなどの貴重な時間を奪られてしまったことは、今でも口惜しく思っておられるようだ。
筆者はその膨大なコレクションの一部を何度か見せていただいたが、飛行機ファンの一人として頭が下がるやら、羨ましいやら、呆れるやら……。
そんなオーバーナイトバッグも、いつの間にか姿を消してしまった。
近年はほとんど見かけることがない。
S先生のコレクションに、新たなバッグが加わる可能性も薄いだろう。
コレクターとしてはお寂しいだろうが、反面、収集義務の呪縛から解放されて、内心ホッとされているのかも知れない。
そうですか、とは、もちろん聞けないけれど。
ビートルズとオーバーナイトバッグ しつこいようだが、懐かしの(わが青春の)オーバーナイトバッグのエピソードをもう少し。
ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港の歴史の本を見ていて、一枚の写真が目に留まった。
一九六四年二月、アメリカツアーを行った際に、ザービートルズはJFK空港を使った。
前年に暗殺されたケネディ大統領を称えて、アイドルワイルド空港から改名されて間もなくのことである。
その写真には、おそらくランプで人々に囲まれた四人が写っており、ジョンーレノンとジョージーハリソンが手にオーバーナイトバッグを持っている。
ジョンは二つ持っていて、そのひとつがあのパンナムのオーバーナイトバッグたった。
もうひとつは、ジョージが持っているのと同じバッグだ。
こちらは英国のBEA(英国欧州航空)の、ボストンタイプのオーバーナイトバッグである。
ザービートルズはリバプールからロンドンまでBEAに乗ってきて、ロンドン~ニューヨークはパンナムで飛んだことが、これで分かる。
そして、ジョンとジョージが持っているBEAのそれには、大文字で「THEBEATLES」と書いてあるじやないか。
これは特別製のオーバーナイトバッグだったのだ。
これはBEAのロゴの前後に、同じ書体で前にTHE、後ろにTLESと書き込んだもの。
何とも洒落た特別製だ。
斎藤先生は、このバッグの存在をご存知だろうか。
最初はモノクラス 旅客機への搭乗連絡橋、ボーディングーブリッジを抜けると、そこはもう客席。
ご存知のように多くの場合、客席は、ファースト、ビジネス、エコノミーの三クラスに分かれている。
しかし、もともと旅客機のクラスは、モノクラスたった。
つまりファーストしかなかった。
というより、クラス分け自体が存在しなかったのだ。
空の旅は、一部の特権的な富裕層だけのものだったからである。
しかもエアラインの黎明期に使われた旅客機は客席数が少なく、せいぜい数席、一〇席以上あれば大型機だったのだ! 世界最初の定期エアラインは、一九一三年コー月一三日に設立されたアメリカのセントピータースバーグータンパーエアボートーライン。
翌年の元日に、世界初の定期旅客輸送を行った。
このときの機種はベノイスト飛行艇で、客席はわずか一席だけだった。
初就航のルートは、フロリダ州のセントピータースパーク~タンパ間、距離二九キロ。
二〇〇三年ニューヨークーヤンキースに入団した松井秀喜選手が、スプリングキャンプを行ったあのタンパである。
一九一四年一〇月五日には、英国でエアクラフトートランスポートーアンドートラベル社132IVが設立された。
同社は一九一九年八月二五日に、ロンドン~パリ間で旅客輸送を開始した。
これが世界最初のデイリーの定期国際航空の誕生とされる。
使用機はデハビランドDH16で、客席数は四席たった。
この一九一九年は、エアライン元年と呼んでもよい年で、ドイツではDLR(ドイッチエールフトーリーデライ)が、フランスではファルマン航空が、英国では前記の会社とパントリー・ベーシートランスポート社が、オランダではKLM(オランダ王立航空会社の略)が、コロンビアではコロンビア国営航空(アビアンカ)が、アメリカではウエストーインディーズ航空などが誕生している。
一九一九年から一九二〇年代の黎明期に使われた機材の客席数は、AEGJHが二席、ユンカースJ10、それから発展した世界初の全金属製旅客機F.13が四席、ファルマンF60ゴリアトがコー席、ヴィッカースFB一八一がI〇席、パントリー・ページo/400が一四席、フォッカーFnとFmが六席、名機フォッカーFⅦb/3mが八席という状況だった。
空の旅の古き良き時代といわれる一九三〇年代でも、時代を代表する機体、たとえば豪華旅客機パントリー・ページHP42の三八席は例外的で、近代旅客機の先駆ボーイング247がI〇席、世界最多の生産数を誇る傑作輸送機のダグラスDc-3が二一席だった。
これらのキャビンで優雅に空の旅を楽しむことができたのは、ごく限られた人たちだけだったのだ。
一九二七年に英国のインペリアル航空が、世界ではじめて一等、二等制度を導入したが、これは混合便ではなく、それぞれ専用便を運航したものだった。
ルートはロンドン~パリ線。
一等運賃は往復九ポンド、アームストロングーホイットワースーアーゴシー(客席一八~二〇席)で所要時間二時間三〇分、飲食サービスがあった。
二等のほうはパントリー・ページW.8(コー席)を使い、運賃は往復七ポンドー○シリングで、所要時間二時間五〇分、もちろん何のサービスもなかった。
一九四〇年にアメリカのY航空が、実験的に低運賃のエアコーチーサービスを提供したが、これもボーイング247Dを低運賃専用便として、サンフランシスコ~ロサンゼルス線で運航したものだった。
航空輸送が目覚しい発展を遂げたのは、第二次世界大戦後の一九四〇年代末から五〇年代にかけて、それは四発プロペラ旅客機の黄金時代でもあった。
この時期、ビジネス客を中心に、少しずつ大衆化も進んでいく。
そこで低運賃のクラス(コーチ、ツーリスト、エコノミーと呼称はさまざま)が登場することになった。
アメリカ国内では一九四九年からコーチクラスが、国際線では五二年からIATA(国際航空運送協134しむⅣ章 乗り心地を愉会、四五年設立の世界のエアラインのカルテル)の協定によるツーリストクラスが正式に生まれた。
ダグラスDC-6やロッキードーコンステレーションで、客席数を約五〇パーセント増しにする一方で、料金は約五〇パーセント安くしたものだった。
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